short-ロッカールーム-



Locker room



 赤ん坊の頃からずっと塾や習い事。家には家庭教師が来るし、専業主婦っていう職業に就いているお母さんも「勉強をしなさい」ばかりを言う。がんばって勉強して百点を取っても、一つも褒めてくれないし、むしろもっと頑張りなさいと言う。百点以上を目指せなんて無理なのに、どうしてお母さんはそんな事を言うのかな。だって満点は百点で、それ以上はどう頑張ったってもらえないんだ。

 一番嫌になるのは月曜日だ。教室にいると耳に入って来るのは「休みは何処へ行ったの?」という質問や、親と一緒に遊んだという会話ばかり。どうせ僕は土曜日も日曜日も塾へ行ったり、家庭教師の先生と勉強をしたりしていたさ。でも、僕だって遊びたい。そんな事を思ってもどうにかなるわけじゃない。教室の会話に付いていけない僕は昼休みになると毎回人の少ない図書室に行って本を読むんだ。

 そもそも僕の家のお父さんはめったに家に帰ってこない。「どうしてお父さんは僕と遊んでくれないの?」「どうしてお父さんは毎日家に帰ってこないの?」とお母さんに訊ねると、「お父さんはとても偉い仕事に就いているから仕方がないのよ、貴方もお父さんみたいになりなさいね」と言う。僕は決して、お父さんみたいな僕と遊んでくれない大人にはなりたくないと思った。そして、それと同時にお母さんみたいな大人にもなりたくないと思った。

 学校が終わってもすぐに家に帰らなくちゃお母さんに怒られる。皆と道草なんかをして帰ってみたいのにそれすらも許してくれないし、唯一皆と一緒にいられる体育の授業で服を汚したり、すり傷を作ったりしても学校に電話をかけて僕の部屋に届くぐらい大きな声で苦情を言いまくるんだ。

 ああ、いっそこのまま部屋に閉じこもってしまおうかな。……でも良く考えてみると駄目だ。お母さんは絶対に扉を蹴破って僕をこの部屋から引きずり出すだろう。考えただけでも、背中に鳥肌が立って脂汗がにじみ出るぐらい怖い。だって僕を叱るときのお母さんの顔は、般若に良く似ているんだもの。

 僕の人生はまだ短いけれど、人生で一番怖かったのは学習参観だ。その時の授業はありきたりな国語で、皆自分の親について事前に書かされた作文を読まなくちゃいけなかったんだ。皆が楽しそうな作文を読んでいる最中、自身の作文を睨みつけている僕は物凄く焦っていた。だってそうだろう? 僕のお母さんは専業主婦で僕に永遠と勉強をさせるし、お父さんがどんな職業に就いているのかも教えてくれない。でも本当のことを書いたらお母さんが「恥をかいた!」と怒って何度も何度も僕をぶつんだ。それが怖いから嘘八百を並べたって良いけれど、それが嘘だってクラスの皆が知ってるんだ。だって僕はそんな話に付いていけた試しがないんだもの。

 先生に名前を呼ばれて、僕は座っていた椅子から立ち上がる。すると皮膚呼吸が出来なくなるんじゃないかと思うぐらい厚く化粧を塗った母さんが「がんばって!」と後ろから声を上げた。クラスの皆がクスクス笑うけれど、僕はちっともおかしくない。むしろお腹の底がキリキリと痛むぐらいに気分が悪くなってゆく。それにチラリと見えたお母さんの顔が凄く怖くなっていて、さらにそれが僕のお腹を痛めつけた。

 息が苦しい、息が詰まる。あらかじめ書いておいた作文を読んでいる最中はずっとその事ばかり思っていた。嘘は書いてない。けれど事実も書いてない。ただある事に少しだけ僕なりの幸福論を交えて読んだだけ。この時ばかりはちゃんと勉強をしておいて良かったと思ったよ。そうじゃないとこんな中途半端な作文は書けっこないんだもの。

 学校が終わって家に帰ってもお母さんは「もう家庭教師の先生が来ているわよ」とだけ言ってリビングの扉を閉めた。自分の部屋に入って家庭教師の先生の言う通りに勉強を進めていると、壁の向こうからお母さんの怒声が聞こえた。どうせ僕が作文を読むときにクスクス笑っていた失礼な子供たちは何処の子だと学校側に問い詰めているんだろう。学校側もいい迷惑だ。

 それから中学、高校と進学したけれど、やっぱり僕は勉強ばかりしていて友達一人作れなかった。唯一の友達と言えたのは、僕が小さい頃にお母さんが買ってくれたウサギのぬいぐるみのダディだけ。言葉のキャッチボールすら成り立たないけれど、僕とずっと一緒に居てくれた唯一心を許せる友達なんだ。

 高校も三年目、入学して以来首席を維持していた僕に先生が、海外の中でもエリートしか行けない大学へ進学したらどうか、推薦の枠は十分に狙えるし、お前の実力なら何の問題もなくいけるぞ。と薦めてきた。それを聞いた瞬間、やっと母親から解放されるんだと思った。

 家に帰ってから、先生に海外の大学を進められたと母親に伝えると、いきなり「それは止めなさい」と声を張り上げられた。この人は僕に対して過保護すぎることは以前から分かっていたけれど、僕自身も大学生になるんだからこれからの自分の未来ぐらい自由にしてくれたって良いじゃないか。僕がそう反論すると母さんは「貴方も母さんの眼の届かない所で女狐を捕まえて、母さんを捨てる気なんでしょう!」と捲くし立てて、僕に鋭い目を向けてきた。女狐というのは納得できないけれど、ガールフレンドは一度ぐらい作ってみたい。それに母さんの元から離れたい……捨てたいというのも事実だ。

 そんな思いを無言の内に悟ったのか、母さんは「絶対にそんな事許さないし、お金も一銭たりとも出しませんから」と叫んで僕を夜の外へ追い出した。ガチャンという鍵をかける音はせず、僕は家の中に入ることができる。だけど外は寒くもなく温かくもない中途半端な風をそよそよと吹かせていて、今はこのままでも良いかと思い僕はゆっくりと歩きはじめた。

 ここ数年僕は父親の顔を見ていない。最後に見たのは僕が中学三年になって、高校は何処にするか迷っていた時だ。(この時、父さんと母さんが言い争いをしていたのを勉強しながら聞いていた気がする。)それに今聞いた母さんの口ぶりだと父さんは他の女と一緒になる為にお母さんを捨てたようだ。少なくとも僕は父さんがそうした理由が分る。僕だってこんな息が詰まる生活をさせる人と一緒にいるなんて、もうこりごりだもの。

 暗い道を歩きながら蛾が集まる街頭を目印に僕は黙々と歩き続ける。途中警察に見つかったりしたら補導されるのかと思ったけれど、携帯の画面を見てまだ八時か、と安堵した。

 海外の大学からの推薦はもう内定していて、奨学金も貰えるから、卒業してから働いてコツコツ返せば学費の問題はあまりないだろう。それに、母さんには黙っていたけれど、パソコンで株などをやっていたから多少のお金はあるんだ。後は書類にサインをもらえれば何時だって僕は家を出ていける。もう息苦しい生活とはおさらばできるんだ。

 ああ、でも僕の部屋にいるダディがかわいそうだ。あんな母さんと一緒にたらずたずたに引き裂かれてしまう。そうだ、家を出る時はダディも一緒に連れて行こう。ぬいぐるみ一つぐらいなら持って行っても構わないだろう。

 決して目指していたわけではないけれど、僕は明るい光を放つ駅にいつの間にか着いていた。そこには毎日視界には入れているけれど、きちんと見てはいなかったクリーム色のコインロッカーが見えて、僕はぼんやりと考えさせられた。

 ロッカー。そうだ、今の僕は母親というロッカーに荷物みたいにぎゅうぎゅうと詰め込まれているんだ。そして見えない雑踏だけを耳にして、そのロッカーの中で此処から出る夢を育み、何時か鍵を壊してロッカーの外に出て、雑踏の一つになるんだ。

 そうだ。結局はそうなるものなんだ。

 僕はそう思うと一目散に家へと帰り、母親にこれにサインをしてくれと海外の大学への書類を見せた。僕がいない間頭を冷やしていたのだろう母さんは、渋々とそれにサインをして好きにしなさいと冷やかに笑った。滅多な事では笑わない母さんが笑うだなんておかしい。そんな一抹の不安を覚えた僕はすぐに自室に入り電子銀行の残高を確認した。

 するとどうだろう。そこには何もなかった。―――そう、お金が、一銭もなかったのだ。どいうことだと思い、よく調べてみると、どうやら誰かが僕の銀行からお金を引き出したらしかった。

 母さんだ。こんなことをする可能性が最も高い人間はあの人しかいない。あの人は僕が株をして、お金を儲けている事を知っていたんだ。だから、僕が出て行った時に残高をゼロにして、帰宅した僕がサインをせがんだとき冷やかに笑ったんだ。

 だけどそれは確信だけであって、ちゃんとした証拠はない。急いで預金の引き出し時間と端末を調べてみると、やはり僕が思った通り、僕がこの家から追い出された時間にこのパソコンから預金が引き出されていて、母さんの仕業だという事が分かった。暗証番号も、IDも書いてすらいないのにどうしてそんな事を知っているのかと思ったが、母さんの事だ、どんなことをしていたっておかしくない。

 それを考えると、長い間使っていたこの部屋でさえ狭苦しいロッカーに見えた。ひどく息苦しい。苦しいんだ。それ以外に何もない。動きたがらない心臓をぐっ、ぐっと無理矢理動かして僕を生かすんだ。

 その日から数日たってから僕は株を再開し、海外の大学へ行くためそれなりの金額を蓄えはじめた。今度は前回の失態を踏まえ、勝手に預金を引き出されないような工夫も凝らしている。そしてその日から数カ月たってから先生に勧められた大学の合格通知をもらい、下宿先を決めた。

 高校も首席のまま無事卒業し、海外へ行く準備を万端に整えてから空港で飛行機を待っていた僕に、母が念を押すように「あっちでも勉強を頑張りなさいね」と圧力を掛けてきた。それには無意識のうちに返答をしていたらしく、返答を聞いた母親は満足そうに飛行機の搭乗口へと向かう僕の背中を眺めていた。

 海外の大学で授業の中で親しくなった友達と遊ぶことも思っていたよりもとても楽しいが、今まで勉強一筋だったせいか勉強をしていないと落ち着かない。とある小説では恋愛は中毒性の高い薬だと例えていたけれど、僕にとっては勉強こそ、その例えの“恋愛”なのだろう。

 毎日、とはいかないけれどそれなりの頻度で遊びに行っていた僕は、虫の知らせとでも例えれば良いのだろうか。何か良くない事が起きそうな気がして、友達と遊ぶのを早々に切り上げてから帰宅すると、案の定日本にいる母さんから電話がかかってきた。それも、真夜中に。

 そして僕に、女の人と付き合ってない? 勉強は母さんが言った通りちゃんと欠かさずやっている? というどうでもいいことを根掘り葉掘り尋ね始めてくる。質の悪い母さんのことだから、時差を知り尽くしたうえで真夜中に電話をかけてきているに決まっている。その事を指摘しても「母さん、貴方みたいに頭が良くないから分からないわ」で一蹴されてしまうのには腹が立つ。時差ぐらい中学生でも知っていると思うが、どうなのだろう。

 でも仕方がない。この人には何を言っても無駄なのだと、我慢して最初の頃は適当に受け流していたけれど、母さんの方は調子に乗り、何度も電話をするうちに更に遅い時間に電話をかけ始めてきた。流石にこれでは身が持たないと思い、そのように伝えてからその日初めて勝手に電話を切った。すると翌日大学の講師の先生から、君のお母さんを訴えるぞと言われた。どうやら昨晩母さんが学校の方に電話し「息子が疲れるまで勉強をさせるなんてどういうことですか!」などと怒鳴っていたらしい。

 それを聞いた瞬間、母親のことを改めて気が変だと思ったし、子供のころから僕を勉強漬けにさせていたくせに、今更学校に対してその言葉はないんじゃないのかとも思った。それに僕の母親はいろいろな人に迷惑をかけてばかりいるから、訴えられるべき人間だ。その決断を下すのに裁判は一番手っ取り早い方法だと思い、「構いません。むしろお願いします」と先生に頷いた。先生の方はすごく驚いた顔をしていたけれど、隈のできていた僕の顔を見て事を察してくれたらしい。

 その後、喜ばしい事に母さんからの電話がまるきり来なくなった。来たのはたった一通の手紙だけ。それも涙か汗か、怒りのせいなのかは知らないが、手紙の字は濡れたように滲んでおり、紙自体はぐしゃぐしゃにされた跡が付いていた。

 がさがさと音を立てながらその手紙を読んでみるとそこには、僕を怨むような文章が連なっており、いっそのことこのまま読まずにトイレに流してやろうかと思った。しかしとりあえず一度ぐらいは目を通そうと思い通してみると、やっぱりそこにはろくでもないことが書かれてあった。

 僕の事を思ってお金を貢ぎ、塾に通わせ、家庭教師を呼び、親がみすぼらしくては元も子もないと己の美とプライドを磨き――。この手紙にはほとんど自分の事ばかりを書いていて、この人はちっとも僕の事を思ってないじゃないかと改めて痛感した。そして、たまに書かれている父親の事については貶してあったり、女狐等の単語が垣間見えたりした。

 見ているだけで胃の底がむかむかしてきたから、掴んでいたその手紙を閉じてすぐに机の奥に押し込んだ。捨てようと思わなかったのはきっと、母親から物をもらうなんてこれが最後だと思ったからだろう。それはどうやら正しかったらしく、現地での就職先を見つけてから大学を卒業して、一度家に帰ってみるとそこは売り家になっていて誰も住んでいなかった。

 隣近所に住んでいる人達に母がどうなったのか訊ねてみると、彼らもそれについては知らないらしく、いつの間にか売り家になっていたと皆口をそろえて答えた。自分の美とプライドは護るけれど、どうも人付き合いが苦手だったらしい母は誰も知られぬうちに何処かへと去ってしまっていたのだ。





 今僕の手元にあるのは母から届いた手紙が一通と、小さい頃に母が買ってくれたウサギのぬいぐるみのダディだけ。そういえばあの手紙も最後まで読んでいなかったと、唐突にそれを思い出した僕は引き出しの奥に埋まっていた手紙を掘り起こす。相変わらずしわくちゃになったままのその手紙は触るたびにガサガサと紙の擦れる音を発していて、この手紙を初めて読んだあの時を思い出させた。(あの頃は、酷く母から離れたかったっけ。)

 再びその手紙に目を通してみたけれど、やはりそこには胃をムカつかせる文ばかりが連なっていた。しかしあの頃気付かなかったことを見つけて、僕は不覚にもボロボロと涙を流してしまった。だって、あの母がこんな文を書くだなんて、大人になった今の僕にも考えられなかったから。

「貴方の歩む未来に、しあわせがありますように。」

 手紙の裏に薄く、小さく、そして優しく書かれたその言葉は確かに母が書いたもの。何度も何度も繰り返し表の手紙と筆跡を比べてみたけれど、やっぱりそれ母の字で、どうしてあの時この文章に気が付かなかったのかと自分を責めた。この一文さえあれば、僕は、ぼくは―――。

   Locker room



 ―――開け放たれた其処には夢見た雑踏などなく、空っぽの部屋だけが待っていた。




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(110822)


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